医療支援報告②
2011年3月11日14時46分頃に三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生した。この地震により宮城県栗原市で震度7、宮城県、福島県、茨城県、栃木県で震度6強など広い範囲で強い揺れを観測した。また、太平洋沿岸を中心に高い津波を観測し、特に東北地方から関東地方の太平洋沿岸では大きな被害があった。気象庁はこの地震を「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名した。死者10102名、安否不明者19,752名(3月26日、朝日新聞より)、被害の実態は未だ実態把握ができていない未曾有の大震災である。地震、津波、原発事故被害を総称して東北関東大震災や東日本大震災と呼称している。
1) 当日および翌日の活動
発災直後の3月11日、15時14分に東京消防庁より九段会館ホールの天井が崩落して多数の傷病者が発生していると通報を受け、日本医科大学付属病院高度救命救急センターから2名の医師が東京DMATとして現場で医療活動をした。また、日本医科大学多摩永山病院では町田市のスーパー駐車場が崩落し、同じく東京DMATとして現場で医療活動を展開した。
同12日朝7時より各地から参集した日本DMAT 20チームがミーティングを行い、日本医科大学DMATは本邦にて初めて実行に移される広域医療搬送の拠点となるSCU (Staging Care Unit : 航空機にて遠隔医療機関へ搬送される患者の全身状態を安定化させる仮設診療所)を自衛隊霞目駐屯地にて活動する役割を受けた。午前8時、霞目駐屯地に到着し、自衛隊テントを活用しSCUテント2張りを展開した。増野講師は1テントの責任者として現場のとりまとめを行った。サイト展開中にも霞目駐屯地には被災地より自衛隊ヘリコプターで次々と被災者が搬送されてきており、低体温症や熱傷患者数名に対して処置を行った。午後より広域医療搬送が開始され、挫滅症候群や多発外傷などの重症患者7名をSCUに収容し全身状態を安定化させた後、ドクターヘリを活用し県外医療機関へと搬送した。同12日夕、第2陣として出動した小野寺医師、安藤医師、柴田医師、三橋救急救命士が活動サイトへ合流した。
2) その後の活動
発災3日目は前日到着した第2陣を加えチーム再編成を行い、渡邊医師、小野寺医師、周東医師は、引き続き日本DMATとして活動を行った。日本医科大学隊は、朝のミーティングにて隣接都市にある石巻赤十字病院での活動することになり、多目的医療支援車にて現地に移動し、情報収集および病院支援を行った。石巻赤十字病院では3日目午前までに赤(重症)80名、黄色(中等症)100名、緑(軽傷)600名の患者が搬送されていた。発災3日目からは取り残された被災者達のヘリコプターを用いた搬送が本格化され、次々と石巻赤十字病院に運ばれていた。日本医科大学隊はトリアージの支援を行うこととし、渡邊医師、小野医師は黄色ブースを、周東は緑ブースのトリアージを翌朝まで続け、同14日朝DMATとしての活動を終了し、付属病院へ帰院した。
一方、増野講師、安藤医師、柴田医師は被災現場を視察、および巡回診療を行った。発災3日目3月13日朝6時より地元消防署、緊急消防援助隊、警察本部等より被害の大きい地域に関する情報収集を開始し、活動場所を塩釜市と設定し、塩釜消防本部へと向かった。塩釜消防到着時、津波警報のため消防署へ避難していた70代女性が突然の昏睡状態となったが、安藤医師、柴田医師の迅速適切な処置により意識回復、現地の医療機関へと搬送した。塩釜消防署にて、多賀城市および七ヶ浜地区の被害が大きく、医療支援が行われていないとの情報を得て、まず多賀城市東小学校避難所を巡回した。体調不良の23人を診察し、災害のため降圧薬を紛失してしまった被災者の血圧測定や糖尿病のインスリンコントロールが困難になっている被災者に対する指導を行い、インスリンが流され高血糖状態となっている患者を問診および血糖値測定より見つけ出し、拠点病院へと紹介搬送した。その後、津波被災地に入り、被害を受けた医療機関および老人福祉施設を巡回したが、入院患者は残されていたものの重症患者はいなかった。これらの医療機関では医療資材が枯渇寸前であるとの情報を得て、後に情報を本部へとフィードバックした。住民情報より避難民が天真小学校避難所にまとまっている都の譲歩を得て同避難所を巡回した。体育館および小学校教室に1000人以上の方が避難していた。同避難所では日本医科大学救命救急センターで研修を受けた地元医師が看護師3名とともに活動を行っており、日本医科大学救護班はその支援を開始した。3階建て40以上の各教室を巡回し、透析の必要な患者計4名を後方搬送のアレンジを行い。津波災害により外傷を負った患者の処置を行った。夕刻まで活動を行い、翌14日に帰院した。